一昨日は、小学校が午前で終わったので、午後、夏休みの寺子屋で一緒だった友人に誘われ、お寺の山で親子で遊ばせていただきました。
7月末の記事↓ に書いたとおり、子どもの保護者がボランティアで関わることが前提、の寺子屋ですが、
私はボディーパーカッションの指導で参加し、山遊びには参加していませんでした。だから、初めて山遊びの様子を見学することになりました。
一緒に行ったのは、私のほかにママさん3人とその子どもたち。3年生の男子ばかりと弟くん。
小さな小川に渡された、木の枝を束ねて手作りされた小さな橋を渡り、里山を登っていくと…
わぁ!すてき。
木々の間が少し広くなったところに、子どもたちが作った手作りの「基地」が。
生えている木の自然の形を利用し、はしごか階段のように足をかけるところがつくられていて、その先に子どもが数人上がれる広さの、2階ができています。
2回の床板から紐で吊り下げたブランコや、竹2本だけでできたすべり台まで!
小さいけれど、子どもが夢見る、森の中のお家、基地です!
皆で運んだ竹や板を使って、トンカントンカン、金槌で釘を叩いて、作業したそうです。大人は補助のみで、子どもたちが自主的にそれぞれ、「ここはこうしよう!」と、どんどんアイデアを出し合い、夢中で作業したということです。
カメラを持っていっていなくて写真が撮れず、残念。
ひとしきり森の中で遊んで帰りました。
たった1時間でしたが、私もなんだか久々に、山の中でゆったりした時間を満喫。
そういえば…
私もこんな山で遊んで、思い切り子ども時代を子どもらしい時間を満喫して育ちました。
自然のままの木や葉、絡まる蔓、草の造形美。
茂みの中にはまるで森の精でもいるよう。
友だちと遊んでいる間の、ふとした一人の瞬間…自然と一体化したような…それはまるで、時が止まったような時間です…そんな瞬間を、何度も味わったような、遠い記憶…。
自由に想像して遊ぶ、ほんとうに「子どもらしい時間」。
今の子どもたちはどれくらい、そんな体験ができる子がいるのでしょうか?
なぜ、ピアノ教室のブログに、関係ないようなこんな話を書くのか。それは、ただの日記ではないからです。
子どもの頃の自然体験が、感性を育てる、と信じているのです。
鳥のさえずり、風の音。
木漏れ日、木の葉が風にゆれる音。
自然体験をしたからと言って、目に見えてすぐに子どもの何かが変わるわけではありません。でも、小さい頃の体験は、大人になってもずっと残る。
音楽の表現にも、バーチャルではなく、「直に」体験したことが、必ず、出てくると思うのです。
子ども時代に、不器用にしか演奏できない子が、音楽を一生の友とし心豊かに生き、大人になってその人自身の音楽が表現できるようになる場合もある。
クラシック音楽には、子どものときは実感としてほんとうにはわからないこともある。年齢を重ねて初めて、ほんとうに自分の表現として演奏できるという面があるのです。
だから、急がず長い目で見たい、見てほしいのです。
技術は、表現のためのもの。
子どもの頃に指がよく動き上手に弾く子が、先生に教えられたそのまま、先生のコピーとしての演奏をするのならば、長い目で見てその子にとって幸せなものではないように思います。
指導者がこうしなさいと教えるのではなく、その人がほんとうに感じ、その人なりの演奏ができるよう、感性を引き出す…そういう指導者でありたいと思います。
そしてその感性を育てるのは、ひとつは自然体験であり、その子が「自分から、心を動かし、手足を、身体を動かして」体験したことが、将来の糧となるはずです。
それはそのまま、きっと「生きる力」となります。
(たぶん子どもにとって、机に向かってやるお勉強よりも、きっとずっと、大事なものだと思います。)