先日、夫との会話で
「啐啄の機(そったくのき)」という言葉があることを知りました。
このブログの、前の記事 ↓ に書いた、○○ちゃんの話…
を夫にしたところ、夫が、
「それは、○○ちゃんにとって、『啐啄の機』やったんやな!」
と言ったのです。
言葉の意味は、夫が説明してくれましたが、ネットで拾った説明を貼り付けます。
禅の言葉に「啐啄同時」というのがあります、5月は野鳥にとっては子育ての時期です、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。
両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、まことに大事なそれだけに危険な一瞬であり啐啄は同時でなくてはなりません。
なるほど~。
この鳥の話ほど危険を伴うことではありませんが、
確かに人にものを教えるということは、タイミングが大事!
ということでもあります。
「今!」というときを見極めること、そして、伝えかた。
手前味噌ではありますが、私、それが上手いと思うんです。指導者として。
ブログの最初の頃に書いた、
カテゴリの「ピアノと身体」の記事シリーズにも書きましたが、
私自身はこういった「演奏と音楽と身体の使いかたを一致させること」について、
子どもの頃から全く教わってこなかったのです。
ずっとずっと強い疑問を持って、求めて、それで大人になって得たものなのです。
身体と楽器が別々に、つながらないまま弾いていても、
どんな曲を弾いても喜びは半減します。
だから、ずっと求めていたのです。音楽の道を志していた頃の私は、
難しい曲を楽譜どおりに弾いても、「何か違う」感じがする。
でも同じ曲をずっとずっと練習していたら
だんだんと、鍵盤とつながる感じが垣間見れたのです。
だから、
いつも氣持ちよく弾けるには、どうしたらいいか?
ずっと練習していたらだんだんと、ではなく、
最初からいつも、氣持ちよく弾けるにはどうしたらいいか?
…それを求めて悩んでいました。
身体と鍵盤がつながったいい音が出せたとき、
弾く喜び、ほんとうの「氣持ちよさ」が体験できる。
それは、幼い子が弾く易しい曲でも一緒なのです。
小さな子にも、いい音で弾くこと、音楽的に弾くことを目指すことはできる。
だから、こういったことをつかんだ子には、
ほんとうに一生ものをつかんだんだよ!
と自信を持って言えるのです。
(もちろん、身体づくりですから、それを積み重ねながら成長していくことです)
そして、昔の自分からみて、最初からこの体験ができる子たちが羨ましい。
そんな私も今は、何を弾いても楽しい。
易しい曲にもその曲なりの魅力があり、芸術的に深い曲なら深い体験ができる。
それは身体を通してこそ、の体験です。